セッション09

セッション09では回心の結果である「聖徳 Saintliness」を扱いました。
ジェイムズの思想はプラグマティズムを下敷きにしたものです。そうであるならば、回心という宗教的現象にも必ず「結果」があることになります。回心して終わり、ではプラグマティストとしては片手落ちでしょう。
その回心の「結果」が「聖徳」という性質です。本文中でジェイムズは以下のようにまとめています。
宗教が人間の性格に実らせるふくよかな果実をあらわす集合名辞は「聖徳」Saintliness という言葉である。聖なる人間とは、霊的な感情をいつでも人格的エネルギーの中心としているような人のことである。そのような普遍的な成徳を示す複合写真といったものがあり、これはどの宗教でも同じであって、その特徴は容易に看取することができる。 2.理想的な力と私たち自身の生命との間に親愛な連続性があるという意識、そしてこの力の支配に対して進んで自己を放棄しようという気持ち。 3.閉鎖的な利己心の外郭がとけてゆくにつれて、無限に意気が高まり自由になったという感じ。 4.感情の中心が調和のある愛情へと、つまり、非我のもちだすさまざまな要求に対して「ノー」を言わず「イエス、イエス」と答える愛情に移っていくこと。 以上の基本的な心の状態は、次のような独特の実際的結果をもたらす。—— その特徴は以下のとおりである。—— 1.この世の利己的な卑小な利害関係から成る生活よりももっと広大な生活の中にいるという感じ。そして、理想的な力 Ideal Power の存在を単に知的に知るばかりでなく、いわば感覚的に感じているという確信。キリスト教の信仰においては、この力はつねに神として人格化されている。しかし、抽象的な道徳的理想でも、市民的または愛国的ユートピアでも、あるいは神聖または正義に関する内的ヴィジョンでも、やはり、私が見えない者の実在に関する講義の中で述べたような仕方で、私たちの人生の真の主であり拡大者であると感じられることができるのである。 ジェイムズ(1970)『宗教的経験の諸相 (下)』岩波文庫 : 28-31
 
これについては、AAの「解決」である「霊的体験・目覚め」を体験したら同じことを実感するようになると言えるでしょう。そしてこのような実感は、人の振る舞いを変化させ、周囲に影響を与えています。
ジェイムズの「回心」も、AAの「霊的体験・目覚め」にしても、神的な存在(ハイヤーパワー)との関係の中で実感したものが、その人のみに留まるのではなく、その人を通して周囲にも影響を与えるという図式が共通しています。
ビッグブックにも「信仰は内から外へ働きかけられなければならない」という指摘がある通りです。
 
そして、セッション後の議論の中で重要な指摘がありました。それは「信仰とは全く何もないところから神との関係で生まれるのではなく、共同体の交わりの中で相互に影響を与えることによって生まれるのではないか」という指摘です。
それはまさにチャールズ・テイラーの『今日の宗教の諸相』でのジェイムズ批判です。この点はとても重要で、AAはジェイムズの影響を強く受けていますが、ジェイムズだけではAAは生まれなかったということが理解できます。
AAの創始の時にはさまざまな源泉があります。オックスフォードグループから受け継いだミーティングなどは好例でしょう。
 
ジェイムズの指摘は12ステップを理解する上で、とても重要です。同時に、ジェイムズの霊的個人主義だけ見ていては見落とすものもある。そんな事実をこちらも気づかせてもらえるセッションでした。
聖徳という性質もきっと、孤立した個人だけでは得ることができないのでしょう。
 
チャールズ・テイラー 『今日の宗教の諸相』